春の夏⑩ 二人の夜
開かれたドアのノブから、ゆっくりと先輩の手が離れる。美和先輩がドアの前で、まさしくポカンという顔をしてわたしを見つめている。
でも、大丈夫。わたしは、なんとかヘップバーンに救われた。
大きな額に入ったポスターを抱え、ボタンを留めていないパジャマの前を隠し、先輩に向かって言った。
「この人の名前、ずっと出てこなくて。なんとかヘップバーン」
先輩は「アハハハハハ」という漫画の活字でしか見ないような言葉をごくごく自然にだしながら笑って「オードリー・ヘップバーンだよ」って答えてくれた。
でも、なんで笑っているんだろう? もしかしてバレてる?
「オードリーなんとかって言った人はいたけど、なんとかヘップバーンって……」
自分の言っている言葉でさらにツボを押したらしく、お腹に掌をあてて身体をくの字に曲げて大笑いしている。
このすきにポスターを持ってクローゼットに引っ込んで、速攻でパジャマのボタンを留めた。
なんとかヘップバーンさん、あなたはわたしの救世主です。
パジャマなんて着るのはいつぶりだろうか? そういえば先輩もパジャマの下はノーブラってことだよね。そう考えると視線が胸にいきがちになる。
美和先輩については神聖なる存在として割り切ったはずなのに、どうやらわたしは素数を2で割り始めてしまったようだ。
また演技の練習しないかな……。
そんなわたしの願いは叶うはずもなく、先輩のお母さんが作ってくれたスコーンを食べたり、先輩が書いた水墨画をみたり、ベランダに出て雲を観察したりして穏やかな時間を過ごした。
あっという間に夜の十一時半になった。特別なことなんてしていないけど、時間が経つのが早く感じたのは何をしているのかじゃなくて、その時間を特別な人と過ごしているからに違いない。
先輩がこっそりと、そして何度もあくびしているのが分かった。昨日は朝から東京に行ってオーディションを受けて夜に帰宅して、今日も何時に起きたのかしらないけど、ずっと水墨画の練習をしていたらしい。いい加減で疲れているだろう。
「先輩、ちょっと眠くなっちゃいました」まだ眠くないけど、そういう事にした。
「そっか、遅くまで付き合わせてごめんね」
わたしたちはベランダから部屋に戻った。
電気が消されて、わたしは先輩のベッドの隣に敷かれた布団の上に寝転んだ。
上から先輩が言った。
「寝心地大丈夫?」
大丈夫です。わたしが頷くと、「寝心地悪かったら、こっちきてもいいよ」って言った。
わたしの目は大きく見開かれた。次の瞬間、筋肉弛緩剤を打たれたかのように、ほっぺや口元がひたすら緩んだ。いわゆるデレデレした顔をしているのが自分でも分かった。
「こないなら私がいっちゃおうかな」
その言葉が言い切られる前に、先輩の身体が降ってきてわたしの隣に着地した。
「春ちゃん、可愛ぃ~~」
おどけた感じで、先輩が抱き着いてきた。
酔っ払った秋姉ちゃんに同じことをされた覚えがある。でも先輩は酔ってなんかない。
「ごめん。うざい?」
わたしは力強く首を横に振った。
「えと、あの、これも演技ですか?」
「春ちゃん酷い」
「ごめんなさい」即座に謝った。
先輩はわたしから身体を離して天井を見つめて言った。
「あの時のキスも演技じゃないよ」弱いため息の後に言葉が続けられた。「そっか、演技だと思われていたのか、悲しいな」
そういう負のベクトルなやつじゃなくて、どうしてわたしなんかっていう……。ああ、これも負のベクトルっぽいけど、そういう疑問を演技だってことで割り切ったんだって説明したんだけど、わたしの意図に反したワードが先輩のフックにかかったみたい。
「わたしなんかって、そんなに奥ゆかしい考え方しないでよ」
奥ゆかしいなんて言葉を聞いたのは初めてかもしれない。こんな言葉が似合う今時の女子高生は先輩くらいだ。そんな言葉を言われてとんでもなくオモハユイ。
「じゃあファーストキスも疑われてたのか」
疑うっていうか、これもわたしなんかでいいのかなーって。
「春ちゃんは? ファーストキスだった?」
「え……」ふいに香耶ちゃんの顔が浮かんで消えた。
「違うんだ」
「えと、あの」
「言いよどむってことは違うってことだよね?」
「いや、え、違うのかと言うと……」
「あ、図星なんだ?」
このクエスチョン・アンド・歯切れの悪いアンサーの行方が分かんない。
そして、わたしに更なる難問が突き付けられた。
「じゃあ、これは演技でしょうか?」
先輩の唇がわたしの唇に触れた。
平均台の上を歩きながら、アルトリコーダーを吹きながら、因数分解をしろと言われたくらいの無理難題。なんだか一人パニック状態のわたしです。
「え、と、え、えん……ぎ、か……」
先輩のいたずらっぽい笑顔が急速に真顔に変わった。
「春ちゃん、ごめん。嫌だったよね。ホントごめん」
この難題は取り消された。先輩は身体を起こしながら「嫌いにならないでね」って言った。
ベッドに戻ろうとする先輩のパジャマの裾に慌てて手を伸ばしたけど掴みそこなった。
先輩はベッドに潜り込んで背を向けた。少し丸めた感じで、実際以上に小さく感じた。
こんな時にどうすべきなのか正解は分からないけど、どうしたいのかはハッキリしている。
わたしは布団を出て、ベッドにあがった。先輩は身動きしなかった。その小さな背中におでこを付けて言った。
「あの時のキスが演技じゃなかったら良いなって思ってましたし、今のキスもそう思ってます」
先輩が寝返りをうってこっちを向く。
カーテン上部のひだの隙間から挿しこんでいる月明りが水墨画の世界に二人きりででいるように思わせる。
顔を近づけると先輩が目を閉じた。先輩のリップにわたしの唇をそっとあてる。そして、触れた唇を離さないよう微妙に動かすと、それに応じるように先輩の唇が動き、軽くついばむと小刻みに震えながら、うっすらと口が開いてくる。
ここでわたしの性欲と、理性という名の打算が戦った。舌を入れてもいいものかと頭の中の誰かと誰かが緊急会議を開いた。決着はつかずに一旦様子を見ることで同意した。
わたしは顔を離して先輩の目を見つめた。
「さて問題です。今のは演技でしょうか?」わたしの中のどっかの誰かが勝手な事をしゃべっていた。
「もう」
先輩は微笑みを蓄えた顔でそう言うと、わたしの胸に顔を埋めて言った。
「なんか落ち着くな」
まともなアンサーってなくてもいいんだって思った。
わたしは先輩の髪を撫でた。気が付けば寝息が聞こえる。
さっき使ったシャンプーと同じ匂いがする。
続く
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