床に若草色とか茅色とか千草色などなど無数の油絵の具が混じり合ってこびりついている。美大に現役で合格したなんとかいう先輩の定位置だった窓側の隅っこがわたしの指定席だ。
それにしても、バレーボール部の担当をするんだろうと誰もが思っていた実習生が何故か美術部にくるなんて。クシャクシャにした笑顔で何か企みを隠しているのだろうか?
皆のはしゃぎようはドッキリ系の番組で芸能人が学校にやってきた時みたいだ。それくらい浮かれて騒いでいる。
「先ずは、今までの作品を一人一人見せに来て下さい。他の人は皆さんそれぞれの今を反映した作品をスケッチブックに描いてみてください。皆さんのことを知りたいのでお話もしましょう一人10分位。隣の準備室にいますので」
え? あの人と密室二人きりで10分も。ていうか、わたしのこと避けてるんじゃないの? でも、昼休みはわざわざここに来たし、でも、昨日とかガン無視したのはなに?……。まるで分からない。
「夏月さん、影山先生が折角見てくれるんだから何か描きましょうよ」
普段、こんなことを言わない二年生の人が、いつもより高いテンションでお節介してくる。
―― あ、そうだ!
わたしは思いついたことがあって鉛筆を手にした。昨日バッタリ会った時の雨の景色を描いて見せたらどんな反応をするだろうか? そう思ったら鉛筆が素直に動きだした。靴底ごしに伝わる化石化した絵の具のデコボコも気にならないくらい集中した。
「最後、夏月さんだよ」
え? もう? あっという間に4人との面談が済んだらしい。でも、時間は1時間半近く経っていた。10分どころじゃない。倍の時間かけている。なんだかげんなりする。でも、この絵を見せた時の反応が見てみたかった。わたしはスケッチブックを閉じて席をたった。
ノックをして扉を開けると横並びに席が用意されていた。
「できるだけ作者さんと同じ方向から見たいの」
言葉尻で、その人は隣の椅子の背もたれに触れて、ここに座れと促した。わたしの目的は席の配置に邪魔された。
それにしても『作者』って、部活で絵を描くただの女子高生に対してなんて大袈裟な。
スケッチブックを渡すと、表紙が丁寧に開かれた。わたしは座り直すふりをして椅子を少しだけ横にずらして距離を空けた。
一枚一枚、じっくりと吟味されてから紙が捲られる音だけがした。気まずい空間で居心地がよくない。悪い感想でもいいから何か言って欲しい。
やっと最後の絵が開かれた。鞄で頭をかばって走っていく数人の姿を雨の斜線の向こうに描いた絵だ。昨日、この人も見たはずの景色をできるだけ忠実に再現した絵だ。ここで会いましたよね? そんなメッセージを込めて描いた意地悪な絵だ。
どんな反応をするだろう、捲られた時から集中して気配を感じ取ろうした。
一瞬だけその人が反応した気がするけれど、そこからは何も読み取れなかった。その絵をじっと見つめると、触れそうで触れない距離に指をかざし、何かをなぞるように動かした。優しいフェザータッチで肌を撫でるような動きだった。バレーボールをしていたわりに、その指は意外なほど繊細だった。よく見ると右の小指の第二関節だけ膨らんでいる。怪我の痕かもしれない。
「これは部活じゃなくて車のドアに挟んじゃった時の怪我」
え? こっち見てた? わたしの動揺に人差し指が答えを返す。その先の正面の壁には自画像を描く時に使う大きな鏡が置いてある。その人が顔を上げた。鏡越しに目が合った。直に目を合わせるよりも気まずさが軽減されている気がするのは鏡面がほこりでくすんでいるからかもしれない。
「大はしあたけの夕立」
何それ? わたしは首を傾げていた。
「歌川広重の名所江戸百景です。浮世絵は好きですか?」
「なんですかそれ?」
「丁度今、美術館でやっていますよ」
その人は検索結果の出たスマホの画面をわたしに見せた。水墨画展はいつの間にか終わって、浮世絵展が始まっていた。ご指摘の絵も表示された。雨の中、橋の上を昔の人たちが渡っている絵だった。わたしの描いた絵は橋じゃないし、川もない。
「似てますか?」
「似ている似ていないではなく、あなたの絵を見た瞬間、歌川広重のこの作品が想起されたということです」
昨日の出来事は想起されないのだろうか? 誤魔化しているのだろうか? わたしが描いたこの絵に対する反応が知りたかった。あの時、目が合ったのに何故、スルーしたのか、その心境が分かるような手がかりでいいから見つけたいと思ったのに。期待も想像も全部外れた。
その人は、わたしの絵に目線を落とした。また無言の時間になった。手持ち無沙汰ついでに聞いてみた。
「なんとかの夕立の絵って何が凄いんですか?」
「そこは詮索しないでいいですよ。夏月さんが見てどう感じたかが大事なのです。あなたの描いた絵が分析されることよりも感じて味わってもらう為にあるのと同じです。ただ、並大抵では人の心を打つ作品はできないということだけは追加しておきます」
なんかまたメンドクサイこと言ってる。それにしてもわたしの絵を見つめて何を考えているんだろうか? 見ているふりして言い訳でも考えているんだろうか? ん? わたしこそ、なに考えてんだ……。そんな事しか考えられないこの時間と空間がとても無意味に思えた。
「そろそろいいですか?」
その人は閉じたスケッチブックをわたしに差し出した。
「人は描かないんですね」
「描いてますよ。今のだって何人か居ましたよね?」
「景色としてではなく、人として描いていないということです。良い悪いということではありません。と補足もしておきます」
「人って好きじゃないので。あ、特定の人を除いて。と補足しておきます」
「そうですか」
生意気な返しに対する憤りや諦めはまるでなく、寂しさのような感情が含まれた声だった。
「ちなみに、色は付けないんですね」
わたしの描く絵は鉛筆書きで完成。色を付けたいと思ったことは一度もない。
「なんとなく」
「分かりました」
鏡越しの面談終了。部室に戻るといつもより楽しそうに創作活動をしている4人の部員がいる。唯一の二年生が立ち上がった。
「皆さん、この美術部の活動ですけど、瑞希さんがいる間だけは週5にします!」
―― はぁ~⁉
っていうか、いつの間にか瑞希さんとか言って下の名前で呼んでる。
準備室からその本人が入ってきた。
「では、私も毎日来ます」
4人が歓声を挙げた。
週に2回だから入部したのに、なんでそうなる? 疲れる2週間になりそうだ。
床にこびりついている油絵の具の化石を上履きの底で蹴とばした。
続く
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