春の夏㉓ 二人の決断
先輩の動きが止まった。永遠に思えるくらい長い一瞬の静止。
春という男子がいて、香耶ちゃんが付き合ってるのは、その人。とかいうことにできないだろうか? 頭の中でわたしが悪あがきをしている。
「同じ学校の見た目ギャルの子なんです。金髪で目立つから田中先輩も知ってるかもしれません」
ダメ押しだ……。わたし以外に春っていうギャルがいてくれたら良かったのに。それは無理な相談だった。
先輩がわたし宛てに書いてるペンの音がぎこちなく聞こえる。スムージーの容器についた二つの水滴が合流して落ちていく。
香耶ちゃんに話しておくべきだった。そうしなくちゃって思ってたのに先送りしていた。
先輩が差し出した色紙を受け取りながら香耶ちゃんが言った。
「付き合ってなんてないです。私が勝手に好きになってるだけで」
先輩のまとっていた固い空気が瞬時にほぐれた。
大量の涙が下のまぶたの中に異空間からワープしてきた。
果樹園の奥から男の人が大きな声で香耶ちゃんを呼んでいる。きっとお父さんに違いない。二人が立ち去ってすぐ、わたしは席を立った。
「ちょっとトイレ行ってきます」
身につまされながら、トイレという一時避難場所を思い付いた自分をラッキーだと思った。鏡を見て自分を落ち着かせる。大丈夫、涙はまた別の空間にワープした。
席に戻ったら先輩がニコニコして言った。
「モテモテだね」
特に何も気にしていない。そんな笑顔だった。
来た道を二人で歩いて戻った。
わたしの気持ちの中に、靴に紛れ込んだ小石みたいなものが転がっている。歩くことはできるけど、立ち止まって脱いでちゃんと取り出さないと歩くたびに違和感を自分に与え続ける。
ふいに後ろから、自転車を漕ぐ音とおばあさんの声がした。
「すいませーん」
道を教えて欲しくて声をかけられたのかと思って振り返ると、わたしと先輩の横を「ありがとー」って言って通り過ぎていった。
道は充分な広さがあるから黙って行けばいいのに。そんなことを思ったら、先輩がおばあさんの後ろ姿を見ながら、とびっきりの優しい笑顔で言った。
「こういうの、なんか嬉しくなるね」
秋姉ちゃんから「あんた最近、云う事が子供っぽくなくなった」って言われたばかりなのに。まだまだ先輩の人格には及ばない。
「春ちゃん、ちょっといい?」
先輩はこの前、別れ話をしたベンチが二つあるだけの公園スペースに入って行った。
「私、言ってなかったことがある」
「え?」
「ずっと言えなかったんだけど……」
先輩は、この前のオーディションは落ちたけど、急遽立ち上げることになった別のグループ入りの打診を受けているそうだ。
「やってください! 約束したじゃないですか! チャンスがきたらそれを優先するって。ちょっと会えないくらい平気です」
「春ちゃん、それがね……」
今度、山グループってのを作るらしく、この前のオーディションは高尾山44の選抜だった。他には函館山44やら、六甲山44とかあるそーで、なんだそれ? って感じなんだけど。先輩はブキティマ山44ってグループのリーダーにならないかって誘われているそうだ。聞いたことないその山はシンガポールにある。引き受けたら簡単には帰国できないし、できても会えるとは限らない。
「ねえ、春ちゃん、どうしたらいいかな?」
わたしは言葉が出てこなかった。
「自分の人生なんだから自分で決めないといけないのは分かってるけど。今の私の人生に春ちゃんの存在が欠かせないものになってるから……」
こんなに決断できない先輩を見るのは初めてかもしれない。それより、わたしの事をこんなにも想ってくれる事がどうしようもないくらい嬉しくて、抱き寄せて「行くな」って言いたくなる。
流されちゃおうかな。この前だって思い切ってふったのに、結局付き合うことになって、それにシンガポールのなんとか山って、本当になんだよそれ? 日本人は先輩だけだし、一人で海外でアイドルして生活して、大丈夫なのかな……。
「春ちゃん。どうしたらいいと思う? 今日が返事の期限なんだ」
昨夜、先輩がファンの人たちのアカウント名が書かれた手帳を見つめていたことを思い出した。先輩の夢はその人たちの期待に応えること。
帽子を取って空を見た。強烈な紫外線をもろに顔で受けてみる。
先輩がわたしの手を握って言った。
「こんな相談してごめん。困らせてごめん。そして、約束破ってごめん。やっぱり断る」
先輩はスマホを出して電話をかけた。微かに聞こえる呼び出し音が、わたしの何かを急かしている。
「お疲れさまです。田中です。あの、シンガポールの件なんですけど……」
先輩が一度下唇をかんだ。その口が開いて言葉を発する前に叫んだ。
「待ってください!」
先輩がびっくりしてこっちを見た。
「行ってください。シンガポール」
耳にスマホをあてたままの先輩がじっとわたしを見つめている。
「1時間後のわたしは、この決断を絶対に後悔すると思うけど、一年後のわたしが、引き留めたことを後悔したくないし、行かなかったことを後悔して欲しくないから」
先輩も一度空を見上げてからスマホに向かって言った。
「私、行きます」
―― 終わっちゃった。
行けって言いつつ、断る先輩を抱きしめて離さない準備をしていた自分が観念した。
「事務所の社長さんとか、演技の先生とかから、いきなり外国のグループでリーダなんて絶対無理、不可能って言われたけど、私、頑張る。でも、行くって言ったら、なんか急にプレッシャーが……」
先輩の手が小刻みに震えている。
その手を握って抱き寄せて髪を撫でた。
「美和先輩ならきっと大丈夫ですよ」
先輩はわたしの頬に頬をあてて頷いた。いつもの柑橘系の香りがする。
本音をいえば、やるって言って欲しくなかった。一時間どころか一分も経っていないのに心の中の全部が後悔している。きっと切なくてやりきれない明日がくる。でも、いつなのか分からないけど、この決断を誇れる自分になれる日がくるって信じてみる。
太陽がヤキモチを妬き、早く離れろって直射日光を浴びせてくる。ジジジジっていう微妙なセミの鳴き声にちゃかされながら、キスをして強く抱きしめた。
続く
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